ワッフルウオッチ

 グリーンジャンボ宝くじ。その当選番号発表の日、僕の両手は、パソコンの前で小刻みに震えていた。
「あ、当たった……」
 パソコンの画面に表示されているのは、みずほ銀行の「当選番号案内」のページだ。
 1、1、2、8……
 僕は何度も六桁の番号を復唱した。間違いない。六桁の番号は間違いない。そのあとに二桁の組も何度も見なおした。
「やっぱり間違いない……」
 僕の手は小刻みに震えていたが、意外にも、頭は冷静に冴え渡っていた。
「間違いない。四億円が当たった」
 四億円。今三十歳だから、八十歳まで生きるとして残り五十年。年収で考えると八百万円だ。月収で考えると約六十七万円。連番で三十枚買うか、バラで三十枚買うか迷ったけれど、バラで買ってよかったと僕は思った。六億円もいらない。四億で十分だよ。

 宝くじが当たったあと、僕は五年間勤めた会社を辞めた。浮かれるような気分だったが、きっちりと引き継ぎを行い、退職願から三週間後の金曜日に辞めた。
 宝くじで高額当選をすると、その後の人生が狂うと言う。実際そういうものだろうと僕も思う。でも僕には、人生を狂わせない自信があった。僕は自分の人生が狂わないよう、あるツールを購入するつもりでいた。ウェアラブル端末と呼ばれるもので、見た目は腕時計だ。

「ワッフルウオッチ」

 ワッフルは焼き菓子として有名だが、「無駄話」という意味もあるらしい。しかし、この特殊な腕時計が語りかけてくる内容は、決して無駄話ではないのだ。

 五年間の会社勤めは、思い出せば辛い日々だった。いや、辛いというのとは違う、と僕は思った。
「心が痛かった」
 僕自身は何も辛い思いをしなかった、と言ってもいいと思う。ただ職場の空気が嫌だった。僕のいた部署には、どのような角度で見ても人格が崩壊している四十代の女性上司が一人おり、たくさんの若い人たちが、男女を問わず、彼女の“攻撃”に耐えることができず辞めていった。
 彼女はまるで攻撃的な野生動物のように、常に自分より弱い人間を部署の中に見つけ攻撃していた。僕はそのような職場環境にいることが辛かった。攻撃される人たちを見て、ずっと心を痛めて過ごしてきた。
「やっとあそこを辞められたんだ」
 最後の出勤日、会社からの帰り、クルマを走らせながら僕はそう呟いた。
 しかしあのような女でも、僕に対してはひたすらに丁重だった。僕は正直に言うと平社員のまま便利使いをされていたのだが、上司、同僚、後輩も含めて、みんな僕という人間の能力を認めていたのは確かだと思う。だからあの女は、動物的という意味では、ある意味最も純粋だったのかもしれない。平社員でありながら、職場で実務能力的に、そして精神的に君臨する僕に、彼女は決して牙を剥くことなく、ひたすらに尻尾を振って接していた。
 僕は、自分の中に他を圧倒する能力が眠っていると考えていた。そしてその能力を、性格的な問題でどうしても発揮することができない、というふうに考えていた。つまり凡人である。
「この自分に備わった素敵な能力を全部発揮できたなら、どんなに素晴らしい人生が待っているのだろう」 
 人は誰しも何らかの才能を持つ。問題はそれを発揮するための性格的な要素を持ち合わせているか、極端な執着心を持っているか。もし能力を発揮することができれば、僕は人生において成功者に成り得る。そんなふうに考えていた。

 僕はクルマを走らせながら、宝くじが当たってから、今まで何度も頭の中で繰り返した計算をまたやった。
「四億円、八十まで生きるとして一年間で八百万。一ヶ月になおすと六十六、六六六六六六六六六六六六……」
 月に約六七万円も使えるのだ、死ぬまでのんびりと暮らすのもいい。でも僕は、どこかで自分の才能を開花させたいと思った。ただ、僕は自分が何をやればいいのか、どうやって才能を開花させればいいのか、どう努力をすればいいのかわからなかった。器用に生きることばかりを考えてきて、これまでに強い執着心を持ったこともなかった。
「だから買うんだ、ワッフルウオッチを」
 僕はとあるショップの駐車場にクルマを止める。店内に入っていき、予約していたワッフルウオッチを買った。値段は71万8,000円。今の僕には、屁でもない金額だ。そのあと行きつけの酒屋に寄り、一番高いバーボンを買った。いつも安い酒を買い、ときおり何か理由をつけ、ちょっとだけ高い酒を買ってきた酒屋だ。白州の一番高い二十五年もの125,000円と迷ったけれど、何かをスタートさせる日には刺激的なバーボンがいい。僕はそう思った。

 僕は家に帰り着く。儀式のように「ただいま」と呟くが、誰もいない。田舎の一軒家、百七坪の敷地に、僕は一人で住んでいる。父親は僕が二十四歳のときに死んだ。僕が東京の大学を卒業し、好きな雑誌の編集部に就職して二年目、ようやく仕事をバリバリとこなせるようになってきた矢先のことだった。僕は田舎に残された母のことを思い、父が死んだ翌月には会社を辞め、実家に帰った。しかしその母も、父のあとを追うように翌年死んだ。
 僕は無駄に広い家に帰宅すると、自分の部屋に行った。タバコを一服したあと、キッチンに行った。夕食は食べる気がしなかった。大きめのグラスに、冷凍庫からかち割りの氷を入れて自分の部屋に戻った。買ってきたバーボンをグラスに注ぐ。しばらくその琥珀色を眺めたあと、ひとくち飲んだ。バーボン。とうもろこし畑からの贈り物。
 二口、三口とバーボンを飲んだあと、ワッフルウオッチを箱から取り出した。見た目は、普通の腕時計のように見える。ワッフルウオッチには様々なデザインのものがあるが、どのワッフルウオッチも、既存の腕時計、つまり普通の腕時計のデザインを模したものとなっている。ワッフルウオッチを見ても、それを身につけている人以外は、特殊な腕時計だと気がつかない。
 ロレックス、カシオ、セイコーのようなデザインだけでなく、G-SHOCKのようなデザインのものもあった。ずいぶん安っぽい、何百円で買ったように見えるデザインのものもあった。僕が選んだデザインは、エルメスのクリッパーだ。これまで僕が身につけてきた腕時計と全く同じデザインだ。僕は取扱説明書を読んだ。

『この時計はあなたのために生まれてきました』
『あなたはただワッフルウオッチを身につけ電源をオンにするだけです』

 説明書には、それだけしか書かれていなかった。僕はワッフルウオッチを左手首につけ、電源ボタン(エルメスクリッパー型の場合は右側面となる)を押した。時計の文字盤がスクリーンに変わり、文字が表示される。
【データを取得します】
 僕が文字を確認をすると、スクリーンはすぐに時計の文字盤に戻った。四口目のバーボンを口に運んでいると、時計はかすかに振動した。見ると再びスクリーンが表示されている。
【これからは私があなたにとって最適な行動を提案していきます】
【このスクリーンはあなたにしか見えません。あなたがスクリーンを確認しているときでも、他の人にはただの腕時計に見えます】
 その後も、次々とメッセージが表示された。それぞれのメッセージは、僕がそれを読み終わるタイミングを感知して、自動的に次のメッセージに変わっていくようだった。僕はワッフルウオッチの使い方を知った。
「いいものを手に入れた」
 僕はバーボンを飲み終わると、今日一日を終える準備に取りかかった。もう一杯飲みたかったが、時計に【バーボンはそのへんにしておきましょう。一日の規定アルコール量を超えてしまいます】と表示されたからだ。

                   ■

 次の朝、僕は起きてから真っ先にワッフルウオッチを身につけた。時計はすぐに起動し、以下のメッセージを表示させた。
【今後の基本方針を入力してください】
【入力する文字列は頭の中で思い描いてください。ミッションとして登録されます】
 僕は言われるとおりに、頭の中で今後の基本方針を思い描いた。ずいぶん漠然とした基本方針だなと思ったけれど、まずはここから、という思いがあった。

<満ち足りた人生、何かを見つけたい>

 ワッフルウオッチには、頭の中で思い描いたミッションを入力することができる。そして入力したミッションに応じた生活規範、行動指示をワッフルウオッチが示してくれる。
【ミッション<満ち足りた人生、何かを見つけたい>が登録されました】
 そして間髪をいれず、指示が表示される。
【今日はドライブに行きましょう。目的地は小倉】
「小倉? ドライブなのに街中へ?」
 と僕は思った。しかし改めて時計を見ても、もう普通の文字盤に戻っている。僕は時計の指示に従い、小倉までドライブすることにした。ワッフルウオッチが指示する内容に間違いはないはずだ。

 僕が住んでいるのは、小倉の中心部から四十分ほど離れた田舎町だ。小倉に向かう道のりでは、最初の二十分ほどは交通量も少なく、快適なドライブと言えた。しかし繁華街が近づいてくるにつれ、道は混み始め、のろのろと進んでいる時間が多くなった。
「繁華街までドライブねえ……」
 僕はこれまでも、月に二回くらいはドライブをしていた。でも目的地はいつも海か山だった。その時々のお気に入り曲を集めたCDを前日の夜作り、それをカーステレオにセットして出かけた。道のりはいつも、だいたい片道一時間くらい。
 考えてみれば枯れ過ぎていたのかもしれない、と僕は思った。三十歳であれば、休日に海や山へドライブに行くよりも、街へ繰り出すほうが適切なのかもしれない。そしてそこには、海や山に行くのでは手に入らない何かのきっかけがあるのかもしれない。
 僕は小倉の中心から歩いて二十分くらいのところにある駐車場にクルマを止め、中心まで歩いていくことにした。楽器屋や靴屋、本屋などを見て回りながら、ぶらぶらと歩いた。どの店にも、また街の通りにも、色々な人がいる。綺麗な女性もたくさんいた。僕は通りに面した一軒のカフェの前を通り、中の様子を伺ったりもした。時計がかすかに振動し、僕はディスプレイを確認する。
【こちらではなく、300メートル先のカフェに入りましょう】
「わかった」
 僕はカフェという場所に入ったことがない。どうしても気後れしてしまうのだ。時計は僕のそんな気持ちを察したうえで、初めてカフェに入ることを提案してきたのだった。僕は時計の指示通り、300メートル先の別のカフェに入った。画面上に次々に表示される指示をこっそりと見ながら、僕は難関の注文を成し遂げた。このカフェでの注文は、噂に聞くよりも複雑ではなかった。ちょっと甘目の冷たいコーヒーと、サクサクしたパンのようなものを注文した。注文が終わったときには、時計の指示に従い、少し微笑んで「ありがとう」と店員の女の子に言った。
【二階にあがるとタバコが吸えます】
 僕は商品を受取ると、指示通りに二階にあがった。円卓のような大きなテーブルカウンターが真ん中にひとつあり、ふたりがけのテーブル席がまわりにたくさんあった。窓際にもカウンター席があった。テーブルカウンター席に腰をおろし、甘めのコーヒーとさくさくしたパンを食べた。

 窓際のカウンター席には、ひとりの女の子が座っていた。ノートを広げ、飲み物を時折口に運びながら、何かを熱心に書いているようだ。落ち着いた色合いの黄色いワンピース。肩までの長さの少し茶色い髪には、ゆるやかなウエーブがかかっていて、全体の印象としてゆるゆるふわふわした女の子だった。
 僕がなんとなく彼女のことを見ていると、彼女はノートから顔を上げ、ざっと店内を見渡すようにした。突発的で、印象的な行動だった。僕はそのとき、なぜか「習性」という言葉が頭に浮かんだ。彼女は一瞬、僕の視線を受け止め、またノートに目を落とした。
「可愛くて、綺麗な子だな」
 そう思った。
 僕はコーヒーを飲み干し、タバコに火をつけた。街まで遊びに来て、ちょっと一休みするってこういうことなのかと、初めて入ったカフェで思った。しばらくして、例の女の子がまたノートから顔を上げて、店内をぐるりと見渡した。素敵な習性だ。ぼんやりタバコを吸っていた僕と目が合うと、彼女は少し微笑んだような気がした。腕時計がかすかに振動する。
【声をかけましょう】
「どうやって?」と僕が思っていると、次のメッセージが表示された。僕はそのまま実践することにした。彼女の隣まで歩いて行って声をかける。タバコはもちろん元の席でもみ消した。
「すいません、ナンパしていいですか」
 女の子は笑いながら応えてくれた。その目には、好奇心のようなものが溢れていた。
「どうぞ」
 元々僕は、女性と話すのが不得意ではない。容姿も悪い方ではないと思う。全く知らない女性に声をかけたのは人生で初めてだったが、彼女との会話は楽しかった。彼女はかわいくて、綺麗で、頭がよかった。素直で、好奇心に溢れていて、僕が新しい話をするたびに形の良い目がくるくると動いて、と、僕は完全に一目惚れ状態だった。
「こんな素敵な子と出会えるなんて。運命の人かもしれない」
 本気でそう思った。

 そのようにして、ワッフルウオッチを手に入れた次の日、僕はカフェという場所に初めて入り、ひとやすみし、そこで素敵な女の子の連絡先を手に入れることになった。陳腐な言い方になるが、世の中には確かに、いわゆる「ビビビッ」とくる出会いがあることを知った。ふたりはとても簡単に、まるで神様にそう仕組まれていたかのように仲良くなっていった。女の子はミクという名前だった。年は二十二歳、大学を卒業したばかりで就職はしていないが、事務のアルバイトをしているとのことだった。ミクのアルバイトが休みの日、僕は彼女を色々なところに連れて行った。実際はワッフルウオッチが、ふたりを色々なところに連れて行ったわけだが。
 ふたりは釣りをした。海や山に向かってドライブをした。街をふたりで歩いた。福岡、小倉は綺麗な女性がたくさんいる街だけれど、それでもミクを見て振り返る人が多かった。クルマで簡単に行ける場所に、わざと公共交通機関を使って行ったりもした。バス、モノレール、電車と乗り継いで門司港まで行った。門司港から下関までは、船に乗って行った。船には五分しか乗れなかった。彼女がもっと船に乗りたいと言うから、僕たちは全く興味がない巌流島にも行った。ふたりで決闘をするようなことはなかった。
 ミクの一番の魅力は、好奇心に彩られた目の輝きだった。何か新しいことをするとき、ミクはいつもへっぴり腰だった。体全体に怖気づくような緊張感が漂っているのに、目だけはいつも輝いていた。恐れているような、でも楽しさを隠し切れないような、そんな目をする。恐怖心も好奇心も、ここまで素直に露わにする女の子を見たのは初めてだった。他にいないと思う。僕はミクのそんな目を見るたびに、初めてカフェでミクと出会ったときを思い出す。あのとき、僕と目を合わせたときのミクの目も、それなりの恐怖と大きな好奇心が入り混じった輝きでキラキラとしていた。
 ワッフルウオッチを買ったとき、正直に言うと、僕は少々、女遊びをしたいと考えていた。ワッフルウオッチを身に着けていれば、きっとモテるだろう。何人かの女の子と仲良くなって楽しめればいいなという思いがなかったかと言えば、それは嘘になる。でも今、隣で眠るミクを見ていると、もう生涯でこの子でいいと思えた。ミクの寝顔を見ながら、僕はうとうとと眠りに落ちていく。ベッド脇のワッフルウオッチも、今は静かにスリープしている。

                   ■

 ミクと出会って、半年が経った。
 ワッフルウオッチを買ったとき、僕は段階的に様々な願望をミッションとして登録することを考えていた。

<自分の才能を全て発揮して成功したい>
<どんなときでも堂々と振る舞いたい>
<積極的でフットワークの軽い活動的な生活>
<たくさんの人を惹きつけたい>

 けれどもずっと、最初に指定した<満ち足りた人生、何かを見つけたい>という、漠然とした設定のままにしていた。何か他のミッションを設定すると、ミクとの関係が壊れそうな気がした。そして僕の中で、少しずつある思いが強くなっていった。
「この腕時計を外したい。こんなものに頼らないでミクと生きていきたい」
 僕は次第にそんなふうに考えるようになった。三十歳、就職はまだなんとでもなる年齢だ。それに僕には宝くじで手に入れた四億もの貯金がある。一生それなりに、ミクと裕福に暮らせるだろう。

 五月。いかにも初夏といった気持ちのいい天気の朝、僕はミクをドライブに誘った。腕時計は海へのドライブを進言した。進言される前に海へのドライブをイメージしていた僕は、「先に言うなよ」と思った。
 クルマで一時間ほどの道のり、小さな街を二つほど通過すると、大きな川沿いの道に出る。道は真っ直ぐに伸びていて、走っているクルマはほとんどない。ミクは助手席のウインドウを十センチほど開け、入ってくる爽やかな風に目を細めている。いつも何かに注目してくるくると動く瞳が、遠くを見つめて佇んでいる様子に、僕は少しおかしくなった。
 僕はカーステレオを止め、ふたりは風の音に耳を澄ませた。海岸近くまで来ると、僕は舗装された道路から脇道へとクルマを入れた。でこぼこした未舗装の道路で弾むクルマ。ミクは「ええっ おおっ」と声を上げ体を緊張させた。だけどその目は、いつものように好奇心で輝いていた。
 砂浜近くの駐車場に着く。何人かのサーファーがボードを抱え、つまらなそうに海を見ていた。穏やかな海だった。サーファーと反対側には、釣り人が二人見える。何を狙っているのかはわからないが、綺麗に晴れた穏やかな海では、なかなか魚は釣れないだろうと思った。僕たちはクルマを下り、砂浜をゆっくりと歩いた。
 しばらく歩いたあと、僕はミクに言った。
「実は、言わなきゃいけないことがあるんだ」
 ミクはいつもの、不安と好奇心が混ざった眼差しで、じっと僕を見た。
「僕がいつもつけてるこの腕時計、これ、ワッフルウオッチって言うんだ」
 僕はワッフルウオッチのことをミクに説明した。この腕時計が、これまで僕のことをコントロールしていたこと。そう説明して初めて、ミクはこの腕時計にコントロールされた自分しか知らないのだと、ハッとする思いがした。
「君は、この腕時計をつけた僕しか知らない。だから、もしかしたら君は、本当の僕のこと、好きじゃないかもしれない」
 ミクはワッフルウオッチの説明をひとしきり聞いたあと、海の遠くをざっと見渡した。何かを見渡す習性を持つ素敵な女の子。彼女はただこう言った。
「ふーん」
「ふーん、て。興味ないの?」
「時計をつけてても、つけてなくても」
「つけてなくても?」
「関係ないですよ!」
 ミクはそう言って笑うと、波打ち際に走っていった。黄色のワンピースが、五月の風にふわふわと揺れた。十センチ長くなった髪もふわふわと揺れた。小さな波を頼りないジャンプで飛びこえる彼女に、僕は大声で呼びかける。
「黄色が似合うそこのあなた! 結婚しない?」

 その夜、僕はついに、腕時計を外す決意をした。僕はミクを送り届けたあと、酒屋に寄って高いバーボンを買った。会社を退職した日に、同じようにバーボンを買ったあの店で。広く、誰もいない家の中、自分の部屋で、僕はたっぷりと氷を入れた大きなグラスに、刺激的なバーボンを注ぐ。一口、二口、三口と時間を空けながら楽しんだ。
 僕は腕時計をゆっくりと外す。外したいと思い始めてから、正直この腕時計のことを忌々しく思うこともあった。でも今、こうして決別の時を迎えるとなると、やはり感謝の気持ちが芽生えた。
「ありがとう。ミクと出会わせてくれて、ありがとう」
 僕はそう言いながら腕時計を外し、律儀に保管していた腕時計の箱に、それを仕舞った。

                   ■

「大丈夫だ」
 僕はそう心に念じて、ミクの住むマンションに向かった。海岸でプロポーズをし、その夜腕時計を外してから、初めて会う。ミクは事務のアルバイトをしているけれど、会社が繁忙期を迎え、一週間会えなかった。プロポーズの返事を聞きたい。僕はそう思っていた。
 しかしその日、彼女から返事を聞けることはなかった。ミクが大好きな、わざわざ電車、船と乗り継いで下関まで行くルートだったのだけど、終始彼女は上の空といった感じだった。
「なんか今日は、つならない?」
 僕はたまらなくなってそう聞いた。
「ううん、そうじゃないの」
 とミクは言った。その日僕たちは、あまり話すことをしなかった。考えてみたら、目を合わすこともなかったように思う。いつもは、わざわざ乗り物を乗り継ぐことが楽しいと思うのだけど、クルマで簡単に行けるのにただ面倒くさいことをしている、と感じるような一日だった。
 僕たちはそれからも、ふたりで街へ遊びに行った。ふたりで釣りをした。図書館に行った。山奥の道の駅にからあげ定食を食べに行った。やっていることはこれまでと同じなのに、どうしても楽しい気分にはならなかった。何がこれまでと違うのだろう。同じなのに。
 その答えはわかっていた。だけど僕はずっと「何が違うのだろう」と考え続けていた。「同じなのに、何が違うのだろう」と考え続けていた。わからない、と思いたかった。恐くて。

 ある日のドライブの帰り道だった。助手席に座るミクは、ほんの少しだけ窓を開けて、ぼんやりと外を眺めていた。あの好奇心でうずうずしているような目の輝きを、もうずっと見ていないなと僕は思った。いや、それどころか、近ごろ目も合わせていない気がする。
 クルマは静かに走っていた。風の音とロードノイズしか聞こえない。ラジオをつけたほうがいいのか、音楽をかけたほうがいいのか。音楽をかけるなら何をかけたらいいのか。もう僕にはわからない。
「あのね」
 隣から小さな声がした。ミクのほうから話しかけてくるなんてずいぶん久しぶりのことのように思えた。僕は嬉しくなった。
「あのね、つけたほうがいいと思うの」
 ミクはそう言って顔を伏せた。
「つけたほうがいいって…… 何を?」
 僕の声は震えていた。
「時計、あの時計を」
 僕の頭は真っ白になった。どうしていいかわからなくなった。心臓の鼓動が激しくなり、発作的にアクセルを踏み込んだ。制限速度五十キロ、一車線の道で、たぶん百キロ近くのスピードが出ていたように思う。
「やめて!」
 ミクが鋭く叫ぶのと、僕がアクセルを緩めるのは同時だった。これまで絶対に自分で認めなかった、絶対に言葉にしたくなかった、でもそれが真実かもしれない言葉を、僕は口にした。
「君が好きになったのは、この腕時計なのか?」
 ミクは何も応えなかった。

                   ■

 僕は朝起きる。まだ仕事はしていない。両親はいない。もう一ヶ月、ミクと会っていない。誰とも会っていない。コンピュータのスイッチを入れると、ツイッターのタイムラインが流れる。僕はそれを見て、かすかに世の中とコミットメントしている気分になる。くだらない人生訓のようなつぶやきが、リツイートとして回ってくる。
『やらない後悔ほど辛いものはない』
 全くくだらない。そんなことは、三十年も生きればある程度わかっている。でも、本当にわかっているのか? 部屋のどこかから、声が聞こえる気がする。
「全くそのとおりだ。やらない後悔はしんどい。今のお前はどうだ?」
 僕は、ミクに電話をかけた。留守電だった。メールをした。夕方になっても返事は来ない。そして僕はついに、決意をした。自分自身を捨てる決意を。あの時計を、またこの左手首につける決意を。
 僕は押入れに仕舞っていたワッフルウオッチの箱を取り出す。買ったときはあれほど頼もしく思っていた腕時計、箱を開けその姿を見ると、今は憎しみしか感じなかった。でもこの憎しみに、僕はすがるしかない。泣きたくなる思いで、真実を反芻する。憎しみに、すがるしかない。
「ミクが好きになったのは、この腕時計をつけた僕なんだ」
 腕時計はブルブル震えると、僕の体から的確に現在の状況を取り込み、迅速に指示を出し始めた。僕はその日の夜、彼女の住むマンションまでクルマを走らせた。いつもは法定速度や制限速度を守る僕が、プラス三十キロのスピードでクルマを走らせた。それが腕時計の指示だったから。
 夜中に突然現れた僕を見て、彼女は微笑んだ。腕時計をしている僕を見て、彼女は少し不思議そうな顔をした。そして久しぶりに、あの好奇心に溢れた目の色を見せてくれた。僕はたまらなくなって、彼女を抱きしめた。強く強く。もう僕が無くなってもいい。この瞳と、見つめ合っていられるなら。

                   ■

 そんな夜から、半年の月日が経った。僕はまだ、働いていない。二人は2LDKのマンションで同棲をしている。僕は外に出ることもなく、何をするでもなく、いつも部屋のなかにいる。

 ぼくのことは ぜんぶ このうでどけいがきめてくれるんだよ
 このうでどけいが ぼくなんだよ
「うん」
 ほら そろそろもう たちあがらないと
 もう さんじかんも ぼくはすわってるんだって
「うん」

 ぼくはソファから腰を浮かし、部屋のなかをうろついた。ただ部屋のなかをぐるぐるとまわっているだけなのに、タンスの角に、テーブルに、壁に、足をぶつけた。いつもそんなふうだから、両足とも、小指は紫色になっていた。
 色々なものに足をぶつけながら部屋をぐるぐるとまわるぼくに、腕時計が告げた。かすかな振動が告げた。画面にはこう表示されている。
【体内の水分量が低下しています】
【水分を補給してください】
 ぼくは立ち止まって、左腕を振った。腕時計には次の画面が表示される。
【水はキッチンで飲めます】
【キッチンの場所を案内します】
 腕時計には地図が表示される。GPSによって、キッチンまでの道のりが表示される。今ぼくがいる場所から、南南東におよそ五メートルだ。ぼくは腕時計に表示された地図に従って、キッチンまで移動した。
【キッチンにはコップがあります】
【現在の視界からコップの位置をご案内します】
 ぼくは腕時計に従って、ターゲットされたコップを手に取った。その後も腕時計の適切かつ完璧な指示に従い、水道の蛇口をひねり、コップを水で満たし、体内に水分を補給した。
【あなたの体内の水分は十分に補給されました】
【今回の直立、歩行により消費したカロリーは以下のとおりです】
 腕時計は、円グラフのようなものを表示し、そのグラフの値を増加させたが、ぼくにはその意味が、もう全然わからなかった。

 ミクはそんなぼくの様子を、隣の部屋から静かに見守ってくれている。大好きなミク。ぼくと一緒にいてくれるミク。嬉しそうなミク。ぼくは四億円の貯金を持っているから、ミクを幸せにしてあげられる。
 ぼくがソファでうとうとし始めると、ミクは静かに、自分の左手首につけた腕時計を見る。腕時計は微かに振動し、彼女にしか見えない文字を表示させる。
【ミッション<お金持ちになる。裕福な生活>は終盤に近づいています】
 ミクはその表示を見たあと、ぼくに言ってくれた。
「ごめんね…… 本当にごめんね」
 その夜確かに、彼女はぼくの前で、泣いてくれたんだ。