博士のやることなすこと

 博士のやることなすこと、月の裏側に直結している。
 月の裏側は、灰色の猫の皮で覆われているが、その下には、ロウソクに照らされたお風呂の水面のような湖が広がっている。
 今夜、博士のやることは、パソコンの画面上にマジックでメモした来月の予定を、紙の手帳にキーボードで記すことだった。九月の予定をすべて八月の手帳に書き記したあと、博士は言った。
「これはタイプトリップだ。見ろ、明日から希望に満ちあふれた九月が始まるぞ」
 ぼくは自分の落書き帳(スケッチブックだ)に、「明日から九月」と4Bのえんぴつで記した。記したあと、エアコンのリモコンを「冷房18℃」から「ドライ-2℃」に切り替えた。部屋が冷えすぎている。
 今夜、博士のなすことは、地下の実験室でショートホープを吸うことだった。冷凍庫からキンキンに冷えたジンをとりだし、2ショットを大きめのグラスに入れかち割り氷を入れる。丸々一個分のライムを搾り入れ、ショートホープに青いイルカのジッポーで火をつけると、大ディスプレイにイルカの映像が映し出された。
 クルーズ船には、精神を病んだ若者がたくさん乗っていた。若者たちはイルカと触れ合ううち、次第に精神の安定を取り戻した。そして最終的にはツアーの主催者に、一個三十万円するイルカのジッポーを売りつけられていた。博士は悪趣味な知人から譲り受けたそのイルカのジッポーでショートホープに火をつけ、煙をくゆらせ、ジンを飲んだ。
 僕は自分の落書き帳(小さなスケッチブックだ)に、「イルカでだって人をだませる」とメモした。
「するりするりと、こぼれ落ちたぞ。新たな希望だと思っていたものは全部、最初の破綻の穴埋めだったぞ」
 博士はそう言いながらショートホープを吸い終わると、熱帯魚の入った水槽に、ビーカーから液体を入れた。銀色の地味な小魚たちが一斉に、七色に輝き出した。
「この現象は、虹と名付けよう」と博士は行った。
 虹に乗って向こうへ行く。もう博士の力は必要ない。空や宇宙の助けも必要ない。ぼくはスケッチブックにそう書いたあと、少し考え直して、空や宇宙には助けてほしいと思った。
「今は亡きおばあさんの仕事場が取り壊されて駐車場になったり、運転の下手なお前のために庭一面が駐車場になる夢を見たけど、今までよくやってくれた!」
 博士はそう言って、ぼくに十通の封筒を渡してくれた。封筒には百万ずつ、合計一千万円が入っていた。
 ぼくはその封筒を持って、虹を渡った。