差し向かいのテーブルの向こう側から、よく冷えたウーロンハイを僕の顔面にぶっかけた君は、水に濡れた視界が鮮明になる瞬間、今まで見たどの瞬間の君よりも綺麗だった。アルコールに酔い、少し青みがかった瞳、突き通そうとする真っ直ぐな意思は研ぎ澄まされ、少し上向きの目尻に向かって流れていた。固く引き締まった鼻、次に発する言葉を聞くまでは、どのような振動も発しないと決意し閉ざされた唇。
 僕は仕方なく、スマートフォンをテーブルに置いて言った。
「それで? 君は自分が小さくなったことを認めたくはないってことだな」
「そうだ」とばかりに彼女は頷いた。
 彼女はクルマで会社にやってくる。黒の軽自動車で、空力を高めるようなパーツがついている。中古自動車屋で安かったので適当に買ったというが、どちらかというと高校を卒業したてのヤンキーが乗るようなクルマで、あまり彼女には似合っていない。
 彼女はクルマを降り、広い駐車場を歩き、通用口からビルに入って会社のロッカー室まで来ると、靴を履き替える。いつも結構かかとの高い色々な靴を履いているが、仕事前に、サンダルみたいな靴に履き替えるのだ。そうすると、彼女の身長はぐっと低くなる。
「朝のロッカー室でのことを言ってるの?」
 と彼女は言った。今度は僕が、「そうだ」とばかりにうなずいた。
「靴を履き替えて、背が低くなるのはとてもかわいいと俺は思う」
「小さいのがかわいいなんて言うのは、たいてい背の高い男よ。少し馬鹿にしてる」
「馬鹿にはしていない。それは当たり前のことなんだ」
「どういうこと?」
「背の高い男は背の低い女が好き。そしてたぶん、背の低い女は背の高い男が好き。みんながみんなそうではないけど、そういう傾向はあるだろう。当たり前のことだ。そういう傾向でないと困る」
「どうして当たり前なの? 困るの?」
「じゃないと、世の中は巨人族と小人族に分かれてしまうだろう? 自分の身長に合わせた、最適な身長の相手を選んでいると、いずれ人類は……」
「あ、なるほど」
「俺はお前のそういうところが好きだよ。すぐピンとくる。頭がいい」
「確かに、相手を選ぶ一番のポイントが身長の釣り合いだったら、おかしなことになるね。世の中のカップルたちが、釣り合いのとれた背の高いカップルと、背の低いカップルに分かれてしまったら」
「過渡期には“中ぐらい”族がたくさん存在するだろうが、将来的に人間は、巨人族と小人族に分かれることになる」
「あなた、頭いい!」
 その居酒屋は、全室個室になっている。とは言っても、簡単に仕切られているだけの個室で、隣の部屋の会話の様子は、耳を澄ませば聞こえる。
 このような男女の会話を、隣の部屋でひとり酒を飲んでいたおじさんが聴いていた。「将来的には、巨人族と小人族に人間が分かれる、か」
 おじさんは芋焼酎のロックをぐびりとやった。
「それを防ぐためには、背の高い男は背の低い女を、背の低い女は背の高い男を好きになるべき、ということか」
 ぐびり。焼酎のロックは空になった。
 おじさんは千年ほど前の人類のことを思い出していた。あのころに、隣のカップルのような考えが浸透していれば、人間たちは今のように二つの種族に分かれることはなかったのだ。そう、頭いい族とバカ族に。
 あのような会話をして、お互いのことを頭がいいと言い合う隣部屋の男女ふたりは、言うまでもなくバカ族だ。そして、将来ふたりに子供ができるようなことがあれば、より純度の高いバカ族の子孫が誕生する。その子供はまた、自分に見合うレベルの適切なバカを探すことになる。このようにして、人間は千年ほど前から次第に二つの種族に分かれてきた。自分はバカだから頭いい人が好きとか、自分は頭いいからちょっとバカな子が好きだとか、そういうふうになっても良さそうだったのだが。
「さっきはごめんなさい」
 君はそう言って、空になったウーロンハイのグラスに目をやった。
「いいんだよ。何か飲む?」
 僕はそう言って、飲み物のメニューを彼女に手渡した。
 ただ、頭いい族とバカ族、どちらが幸せに生きているか、まだ歴史は証明していない。