流浪の果てに

 電車に乗って窓の外を眺めていると、僕は時々キリタニさんのことを思い出す。キリタニさんは、全国を転々としている男の人で、僕より十歳年上だ。面白いのはその転々と仕方で、いつもしっかりと地に足をつけて転々としているように見受けられる。
 キリタニさんは高校を卒業すると、まず田園風景が広がる地元を出て、県内の政令指定都市に住んだ。そこで彼は、一年間しっかりとパチンコとスロットをやり、三百万円ほどのお金を貯めた。彼が言うには、ギャンブルというものは、確率の期待値というものに注目し、楽しまなければ、しっかり勝てるものだそうな。
 キリタニさんは高校生のとき、ずいぶんと学業優秀で、東大や京大は無理だとしても(私立文系のクラスだった)、東京六大学の文系は十分に狙える成績だった。けれども一年間のパチプロ生活でだいぶ“受験的知識”は低下した。しかしキリタニさんはそんなことを気にせず、一年間のパチプロ生活を経て、いわゆる二流の私立大学を受験、合格し、稼いだ三百万円を持って上京した。
 キリタニさんは二年間東京池袋で生活したあと大学を中退し、以降二十代の十年間をアルバイトをやって過ごした。二年ずつ、五つの街で。大宮市(現さいたま市)、小山市岡山市仙台市北九州市
 僕がキリタニさんに出会ったのは二十歳のとき、キリタニさんは三十歳だった。キリタニさんと僕は、北九州市にある期間限定の地図作りのアルバイトに、同時に面接にやってきた。二人は問題なく採用され、翌週からその会社で働くことになった。八月初めから十一月中頃まで。
 キリタニさんがいつから北九州市にいたのかはよくわからないが、僕たち二人のアルバイト期間は、翌年のゴールデンウィークまで延長された。その後僕はその会社に正社員として採用され、キリタニさんはまたどこか別の土地に旅立っていった。
 キリタニさんとは、仕事帰りによく飲みにいった。僕たちはとても女の人のことが好きな二人だったので、いつも女の人の話をした。でもふたりで女の人をナンパしたりするようなことはなかった。あくまでも、大好きな女の人のことについて、二人で話すのだ。
 キリタニさんはずいぶんと女の人にモテる雰囲気の人で、彼と一緒にいるときにその気になれば、ずいぶんいい思いをしただろうと思う。でも僕は、キリタニさんとふたりで女の人をナンパしたりするのは嫌だなと思っていたし、そうすることもなかった。女の人と相対する自分をキリタニさんに見られることは、なんとなく恥ずかしい感じがしたし、好きなもののことをちょっと傍らに置いておいて、それがいかに好きかということを、同じ気持ちを持つ人と語り合う楽しさってものが世の中にはあると思う。冬に暖房の効いた部屋で読んだ本の話を、真夏のビアガーデンでするように。
 キリタニさんは「恋人関係」というものを否定した。結婚関係は肯定した。結婚は、ふたりで小さな船に乗って海に漕ぎ出すようなものだとキリタニさんは言った。同じ船に乗るふたりは、同士のようなものだと考えればいいと言った。同じ船に乗って航海する同士を見つけるつもりで結婚すれば、その関係はうまくいくとキリタニさんは言った。恋だ愛だので結婚するのではうまくいかないと。たまに恋だ愛だのでうまくいっている夫婦もいるが、それは大元の同士関係も優れているのだと。
 恋人関係については、言葉そのものから否定した。それは人類が成立させた一種の契約だと。人はそのときどきで、好きな人と一緒にいるべきだとキリタニさんは言った。彼女がいるから、彼氏がいるからと、その関係性を固定することは、自然な心の動きではないと彼は言った。心が、言葉によって支配されている、と。そのようなわけで、キリタニさんには好きな女性がたくさんいた。
 キリタニさんは、全国各地で出会った女性の話をするのが好きだった。モテそうなキリタニさんがする話だが、それはいやらしくもなく、また、鼻につくものでもなかった。キリタニさんがする女性の話を聞くと、僕はまざまざと素敵な女性を想像することができた。経験の少ない僕も、これからどれだけ素敵な女性に出会えるのかなとわくわくした。そしてキリタニさんが全国を転々としているのは、恋人関係という契約に陥らないためなのかなと思った。キリタニさんは、恋人関係を否定しながらも、女の人には溺れそうになっていたのかもしれない。同士を見つけてさっさと結婚すればいいのに、どこか恋人という言葉の響きに憧れがあるのだ。だからそうならないように、短い期間で点々としているのだろうなと僕は感じた。
 月日が経って、ある意味で僕は少しだけキリタニさんっぽくなった。そんなキリタニさんから手紙がきたのは、八月だった。キリタニさんは引っ越す度に手紙をくれていたが、ここ三年ほどは来ていなかった。キリタニさんが北九州市を出て行って十年ほど経つ。僕は三十歳になったから、キリタニさんは四十歳のはずだ。手紙には、キリタニさんが再び北九州市に帰ってきたことが記されていた。僕は差出人名とともに記されたその住所に注目した。「福岡県北九州市小倉南区○-○-○」そこには、アパートやマンション名が記されていない。
 僕は電車に乗って、キリタニさんの住む家を目指している。これまでも電車に乗っていると、なぜか時々キリタニさんのことを思い出していた。移動、という行為が、キリタニさんを思い出させるのかもしれない。
 最寄駅で電車を降り、だいたい十分ちょっと歩いて、僕はキリタニさんの家に着いた。こぢんまりとした庭付き、そこそこの大きさの一軒家。古いがしっかりした作りであるように感じられる。庭がきちんと手入れされていて、そこにはキリタニさん以外の、誰かきちんとした人の手が加わっている気配がある。キリタニさんがきちんとしていない、というわけではないけれど。
「こんにちは」
 僕はそう声をかけながら、玄関のドアをノックする。呼び鈴のようなものはついていなかった。「はあい」と明るい女の人の声が返ってきて、僕は少し身構えた。彼女は「どうぞー」と言いながら玄関のドアを開けた。肌の色が白く背が小さくて、少しオレンジ色がかった髪の毛をした女の人だった。年はたぶん僕と同じ、三十歳くらい。
 僕が玄関先で「どうも……あのキリタニさんの知り合いで……」などとまごまごしていると、奥からキリタニさんが出てきた。
「やあ、よく来たね」
「お久しぶりです」と僕は言った。
「ちょっと外に出てくるから」
 キリタニさんは女の人にそう言って、僕の先に立って歩き始めた。僕は女の人に会釈をし、キリタニさんの後を追って歩いた。僕たちはしばらく、無言のまま街中を歩いた。キリタニさんは少しも老けておらず、しいて言えば、昔より太った。
「結婚したんだよ」とキリタニさんは言った。
「古い民家だがローンを組んで買った」
 僕は頷いた。
「小さな会社だが、ちゃんと正社員としても就職した。もうフリーターではないよ。君はどうしてるんだい?」
「相変わらずです」
 と僕は言った。
「そうか。相変わらずか。どういう相変わらずだったかな」
「今は、でかい会社に勤めています。勤め始めて三、四年は、楽しく仕事もしていたんですが、最近はそうでもないですね」
「そうか。でも、まんざらでもなさそうだな」
「確かに。嫌なことは特にないですね。関わらなければいいだけです」
「確かに相変わらずだ」
「キリタニさんは、変わったんですね」
「そうかな? そうでもない気がする。元々こうだったんだ。きっとずっと無理していたんだろう」
「そうは見えなかったけどなあ」
「無理をするために、自然にしていたんだ。きっと。君もそうなのかもしれないよ」
「僕は自然にはできないですから。無理もできないです。そこが僕の限界」
 僕とキリタニさんはしばらく歩き、ビールがおいしいバーに入り、ひたすらに黒いビールを飲んだ。二時間ほど経ってから、キリタニさんは奥さんに「もうそろそろ帰るから」と電話をした。キリタニさんはケータイを二つに折りたたみ、静かにテーブルに置いてから言った。
「なあ。世の中には、いかに楽して生きるかってことをひたすら考える人と、いかに力を発揮するかってことをひたすら考える人がいるんだ。君はどう思う?」
「わかります。どちらも」
「そうだな。君はきっとどちらもわかる。で、どうしたいんだ?」
「さあ。どうしたいですかね。いつまでこうなんですかね」
 キリタニさんは、黒いビールの最後の一口を飲み、少し凄みをきかせる風の表情を作って言った。
「俺が、片方の翼をもぎ取ってやろうか?」
 僕は少し考えてから言った。
「そうしたら、うまく飛べますかね」
「うまくは飛べなくなる。でも、目的地には向かえる」
 外に出ると、夜はずいぶんと更けていた。キリタニさんは奥さんの待つ家へ、僕は駅の方へ、そこで別れることにした。僕は最後に、キリタニさんに聞いた。
「キリタニさんは、今無理してないですか?」
 キリタニさんは首を振りながら言った。
「無理してないよ。俺には元々、ひとつも翼がついてないからな」
「そして、同士が見つかったんですね」
 いや、とキリタニさんはまた首を振って言った。
「恋人みたいなもんさ」
 オレンジ色のライトをつけたタクシーが、駅のロータリーに向かっている。そう遠くない田畑から、かすかに虫の声も聞こえる気がする。