アスファルトも冷めない夏の夜に

 東日本大震災があった年の夏、節電対策で、会社のトイレの電気が、自動式になった。トイレ内に人がいるいないを察知して、電気が自動でついたり消えたりするのだ。
 でも、人がいないのに電気がついていることが時折あって、僕はなんとなく不思議に思う。いったい何に反応しているのか。センサーがあまり良くできていないのか。これじゃ手動でスイッチをオン/オフしているほうがましだ。自動化することで手動のスイッチはなくなっているし、全然節電になっていない。
 そのように小さな不満はあるが、最近会社での仕事はうまくいっている。最近というより、この会社に勤め始めてから今まで、おおむねうまくいっている。でもそれは僕の気持ちがそうなのであって、まわりの人から見ると、僕は「いいように使われている人」であろう。
 僕はいわゆる平社員であるが、その権限を超えて色んな仕事をしている。なかには「この業務を実質キミが指揮していることは、あまり公言しないように」なんて言われている仕事もある。確かに、いいように使われているんだろう。平社員のままここまでやらされているのだから。でも僕は別にそれがいやだとも思っていないし、うぬぼれまくるようなこともない。特命っぽい妙なポストへの昇進を持ちかけられたときは、「それって格好良いな」とちょっと思ったが、結局面倒くさそうでやめた。そういうことは何度かあり、僕が断るとき、上司はよく「わかった。でもあの仕事はやってくれるな?」というようなことを言う。僕はいつも「はい、やりますよ」と答えて、今のようなことになっている。「あの部署にはちょっと面白いすごいやつがいる」と評判になっているみたいだけど、別にすごくもなんともない。何も考えていないだけだ。
 とは言っても、色々と理不尽なことはある。実質僕が全体の指揮を取っているような業務でも、数字でモノを見るような、ものすごく上の方にいる本部の人たちから見れば、僕は最小単位の歯車の一つだ。散々いいように使われ、まわりに頼りにされていても、会社全体がうごくような施策があるときには数字が命。急に僕も雑魚扱いとなる。そして数字先行で決められた、ままごとのような業務計画がガタガタに崩れ始めたころ、直属の上司から「力を貸してくれ」とSOSが発せられるのだ。でもね、僕はそんなことも気にしない。上の人もみんな馬鹿ではないし、色々立場があってモノを喋っているのだ。たとえ馬鹿だとしても、元々馬鹿なのではなく、環境がみんなを馬鹿にしてしまっているだけなのだ。
 この会社の理不尽について、考えたければいくらでも考えることができる。イライラしたければいくらでもイライラできる。でも、そんなことは考えず放っておく。そんな僕のおっとりとした態度に、以前からまわりの人は好感を持って接してくれていると思うのだけど、最近は以前にも増して、みんな僕のことを大事に扱うようになった気がする。
「そこまでやったか。もうこれでだいじょうぶだよ」
「すごいね、これでじゅうぶんだよ」
 僕は最初、少し誇らしげな気分になった。でも日に日に、僕はあまりにも気遣われるようになっていき、近ごろはちょっと、いやな気分になることが多い。
「それ、やらなくていいですよ。わたしたちがやるから」
 僕はそう言われても、これまでの感じで、やらなくていいことまでやってしまう。でも、みんなは僕がやったことを、またやり直したりしている。ひそひそ話し合ったりしながら。なんだよもう、せっかく僕がやったのに、またやり直してる。そんなに僕がやった仕事がだめかい? いままでどおり、完璧だろう? なぜ、そんなにやり直しているんだい?
 ある日僕は、仕事終わり、三階の喫煙室に寄って、タバコを吸ってから帰ろうとした。仕事終わりに深々と吸い付けるタバコはとてもおいしい。そこへ、一年前他の部署に異動した、かわいがっていた男の後輩がやってくる。彼は同部署にいるあいだ、金魚のフンみたいに僕にくっついてまわっていたが、十歳年下であるにもかかわらず、色々と機智に富んだ話ができ、頭の良い男だ。
 僕たち二人は、たわいもない話を面白可笑しくしてたくさん笑い、タバコを一本吸い終わる。トイレに寄って帰ろうとすると、「僕もお供します」と後輩がいう。並んで用をたしながら、「このトイレ、たまに誰もいないのに電気ついてるよねえ」と僕は言う。「今も、僕たちが入る前からついてましたよ。なんでですかねえ。ネズミでもいるんですかね」と後輩は言った。それはないだろ。
 次の日、福岡はとても暑くて、三十五度を超える猛暑日だった。僕はいつも、昼ごはんを同僚たちと一緒に食べている。でも、特定の昼飯グループがあって、いつもそこで食べる、というわけではない。昼飯グループはいくつか形成されているが、僕はその日その日で、気が向いたグループに加わって食べていた。どのグループに加わったときも、僕は楽しく会話をしながら、昼ごはんを食べた。
 でもその日、僕はひとりで昼ごはんを食べた。いつものように気が向くまま、「今日はあの人たちと食べよう」と、あるグループのところに行ったが、みんなに無視された。まあそんなこともあるだろう、そう思って、僕は他のグループのところに行った。そこでも僕は無視された。違う部屋の、男だらけのグループのところにも行った。そこもだめだった。
 たまには一人でメシを食うのもいい、僕はそう思って、小さな売店の部屋に置かれた、小さな丸いテーブルの椅子に腰を下し、一人で昼ごはんを食べた。売店のおばちゃんはカウンターの奥にある小部屋で休憩しているのか、それとも席を外しているのか、売店の部屋には僕以外誰もいなかった。
 そこに、一人の女の子が入ってきた。彼女は二十九歳の綺麗な子で、昨年入社し、主に僕の下について一年間仕事をした。僕は自分がやっている業務や専門知識を一年かけて彼女に教え込んでいったが、彼女はあまり仕事を覚えなかった。上司たちの評判も芳しくなく、ひと月ほど前、他の部署に異動となり、僕が教えてきたことはほぼ無駄になった。
 綺麗だけどダメなやつ。こいつも金魚のフンみたいに僕についてまわる子だった。頭のいい子が好きな僕だけど、何かきっかけがあれば、デートくらいしてもいいと思っていた。だって顔は綺麗だし。
 部屋に入ってきた彼女は僕を見て、はっとした顔をした。彼女は僕の横に立ち、「ここに座っていいですか」と言った。「いいよ」と僕は言った。小さな丸いテーブルの向こう側に、彼女は座った。小さなトートバッグから、彼女は持参した弁当とタンブラーを取り出し、テーブルの上に置いた。
「相変わらず、ここでひとりで昼ごはん食べてるんだね」と僕は言った。
 彼女は同じ部署にいたころから、みんなと離れてこの小さな部屋の小さなテーブルで、ひとりでお弁当を食べていた。本を読みながら。
 彼女は昼ごはんを食べながら、本当にお世話になりましたとか、プレッシャーの高い部署だったけど僕と一緒ならがんばろうと思っていたとか、せっかく色々教えてもらったけど異動と言われたのでしょうがなかったとか言った。僕が今の部署はどうかいと聞くと、プレッシャーはないので、それはいいですと彼女は言った。僕は彼女が喋り、食べる様子をしばらく眺めたあと言った。
「今度休みの日に、ふたりでどこか出かけてみる? クルマで」
 彼女はしばらくためらったあと、静かに言った。
「そのクルマは…… もうないはずです」と。
「もしこのことをはっきり伝えるなら、それはわたしの役目、わたしが伝えなくちゃいけないと思っていました」
 彼女は真っ直ぐに、僕を強く見つめていった。
「先輩のクルマは、もうないんです。高い崖から、海に落ちて……」
 彼女が次の言葉を発しようとしたとき、売店に人が入ってきた。入ってきた男は彼女をちょっと不思議そうに見たあと、スタンダードなカップヌードルを手に取り、「すいませーん」と大きな声を出した。売店の奥の部屋からおばちゃんが出てきて、彼はお金を払う。彼は彼女のことをもう一度不思議そうに見て、売店を出て行った。売店のおばちゃんも、彼女のほうをちらと見、「何も買わないの?」みたいな顔をして、また奥に引っこんでいった。彼女は、その涼やかな目に涙をいっぱいに溜めて、一礼したあと静かに部屋を出て行った。まるで僕がここにいないみたいだ。
 昼休みが終ってデスクに戻ると、僕は色々な人に、色々なことを聞いてまわった。業務のことや来月の飲み会のこと、他部署の様子や展開予定の新サービスのこと。色々なことを聞くたびに、上司や同僚、後輩たちが、僕のことをとても悲しそうな目で見る。そして目を伏せる。
 その日も僕は、権限外の仕事を残業してやっつけ、といっても三十分程度でやっつけてやり、喫煙室で深々とタバコを一服した。日に日にタバコの味が感じられなくなってきているけど、今日は全然味がしない。味のしないタバコを一本吸い終わったあと、いつものようにトイレに寄って帰ろうとする。
 トイレはちゃんと電気が消えていて、真っ暗だ。そして僕が入っていっても、電気はつかない。真っ暗なままだ。センサーがおかしくなったのかと思い、僕はトイレのなかでちょっと大げさに動いてみる。けれどもどうしても、電気はつかなかった。
「まるで僕がいないみたいだ」
 僕はそう思いながら、真っ暗なトイレで用をたす。
 さあ、帰ろう。さあ… 帰ろう…。僕はいったい…… どこに帰ればいいのだ……?