桜の季節を楽しむために

「冬は寒いから温かい気持ちになれるんだよ」
 無駄にキムチ味となった鍋料理をつつきながら、僕は言った。
「そんなことない。暖かい季節のほうが、温かい気持ちになれるよ」
 とマイは言う。
「暖かい季節って、あの季節のことか?」
「そう、春よ」
「春に温かい気持ちになれるなんて言ってるのは、世界中でマイだけだよ」
「そんなことない。あたし以外に、世界でもうひとり知ってる」
 僕はなんとなくその“もうひとり”がうらやましくなって、再び無駄にキムチの入った鍋をつつき回した。
 マンションの隣の部屋の開けっ放しになった窓からは、男の号泣する声が聞こえてくる。
『たまには無意味なことをしてみるものだ! たまには無意味なことをしてみるものだ!』
 男はそう叫びながら号泣している。確かお隣さんは、48歳だと言っていたか。僕は彼を見ていると、とても幸せな人生だなと感じたり、とても悲しい人生だなと感じたりする。どっちだかわからない。電車のなかで、全く人目を気にせず、むしゃむしゃと総菜パンを食べている太った若い女性を見たときと同じ感想だ。
「死体が埋まっているって伝説があってね」
 僕は鍋のなかをつつき回す手を止めてマイに言った。
「それはサクラの持つ美しさ、儚さへのアンチテーゼよ。アンチテーゼって言葉の使い方間違ってるかもしれないけど、なんとなくわかるでしょ」
「お前は確かに今アンチテーゼの使い方を間違っていると思う。だけど俺にはお前が何を言いたいのかはわかる。でも死体が埋まっているって伝説は、アンチテーゼではないと思う」
「他にはこんな歌もあるのよ。“春を愛する人は 心清き人”。他にも、“春が好きな人は優しい人”なんて俗語もあるのよ」
「その俗語って言葉の使い方は間違いなく間違ってる」
「とにかく、春は心温まる季節なの」
 いつからだろう、世界中の人々がサクラを憎むようになったのは。人々はサクラの季節がやってくると、一様にふさぎこんだ。もう少しでサクラの季節がやってくるってのは、幅三メートルの道で、大嫌いだけどある程度付き合わないといけない知り合いと、あと五メートルですれ違うときと同じような感覚だった。
「昔はみんな、サクラのことが大好きだったのよ。ほんの十年前まではね。だけど、みんなの心をとても傷つけるようなことが、十年前の三月に起こったの。」
 マイはそう言う。
「それはどんなこと?」
「今は言えないわ。いつか言える日が来るかもしれない。来ないかもしれない。ただ、世界中のみんなは、それをサクラのせいにして乗り切ったのよ」
「ふうん……」
 確かに、今年ももうじきサクラの季節がやってくる。僕たちにとって、憂鬱な季節だ。五分散り、七分散り、満散り。僕たちはサクラの季節が終わることを、指折り数えて待っている。それが始まる前から。