鉄塔の男

「いいかい? 人間はいついかなるときでも、頑張って頑張って、頑張りぬかないといけないんだよ」
 それが父親の口癖だった。来年小学生になる娘は、幼いながらも「がんばるのはいいことだ」と考えていた。
 親子が住む家の窓からは、大きな鉄塔が見えた。空のご機嫌が極端に悪いときはその鉄塔に怒りのいかづちが落ちたりして、親子はしばしば驚いた。しかし最近では、そんなかみなり様よりも母親を不安にさせるものが現れるようになった。
「ママ、あの人はいつもなにをやってるの?」
「さあ、なにをやってるんでしょうね」
 いつの日からだろう。気がついたときには毎日、鉄塔に怪しい男が現れるようになったのだ。
 彼は朝の九時ごろに現れ、昼の十二時くらいまで鉄塔と格闘する。格闘というのはつまり、登ろうとする。ほとんど手がかりのない鉄塔を、落ちては登り落ちては登り。もちろんそんな上のほうまでは登れない。なぜなら高さ五メートルくらいのところに、それ以上登れないよう地面と水平に金網が張ってあるのだ。
 しかし男の挑戦は、たいていその金網まで到達せずに終わった。登り始めてすぐ落下、二メートルで落下、三メートルで落下というふうに。
 娘は男の挑戦をいつも、窓からキラキラした目で見つめていた。そして遂に、声に出して応援するようになった。
「がんばれ! がんばれ!」
 男には娘の声援が聞こえているようで、たまにこちらを向いて微笑むようになった。母親はそのことを苦々しく思った。
「あんな頭のおかしい人とかかわりあいを持つなんて…… 何事もなければいいんだけど」と。
 たぶん娘は、頑張っている男を見るのが好きだったのだろう。そして応援しなければいけない、と思ったに違いない。父親の口癖によって、頑張るのはいいことだと信じていたから。
「がんばれ! がんばれ!」
 娘の声援に応えるかのように、男の鉄塔登りは上達していった。以前は登り始めてすぐ落下していたのが、今では二回に一回、金網のある限界までたどり着くようになっていた。そして声援を送ってくれる娘に対して、手を振り返すようになっていた。
 いけない、と母親は思った。娘とあの頭のおかしい男は、とうとう気持ちを通わせるまでになってしまった。このまま放っておくと、いつか娘に災いが降りかかるかもしれない。例えば、誘拐されるとか。
 母親は「なんとかしなければ」と思う。だが娘は「頑張る人」を応援しているのだ。もし応援をやめさせようとすれば、娘は「なぜ応援しちゃいけないの?」と言うだろう。
「がんばれ! がんばれ!」
 その日もやはり男は鉄塔に登り、娘は応援をしていた。男はもう百パーセントの確率で、金網の所まで登れるようになっていた。そしてそこまでたどり着くと、決まって娘に手をふった。娘はいつも、拍手をしていた。
「あの男の人がもっと頑張れるように、ママも応援しちゃおう!」
 ある日母親は、娘にそう言った。そして金網の所で満足げに手をふっている男に、大声で「がんばれ! がんばれ!」と声援を送った。
「がんばれ! がんばれ!」
 娘も母親にならった。そうだ、お父さんも言っている。人間は、がんばり「ぬかない」といけない。
 男は最初、少し戸惑ったような顔を見せた。しかしやがて「うむ」とうなずき、はるか上空を見上げた。まず問題は、地面と水平に張られた金網である。これを乗り越えないと、上昇、勝利への道は開けない。
「がんばれ! がんばれ!」
 男は意を決し、金網につかまった。
「がんばれ! がんばれ!」
 男の体が宙ぶらりんになる。「うんてい」の要領で金網の端を目指す。
「がんばれ! がんばれ!」
 男は腕をぶるぶると震わせながら、金網の端まできた。ぐいと体を持ち上げ、無事金網の上へ。
「がんばれ! がんばれ!」
 それでもまだ、母親は応援をやめない。娘もそれにならってやめない。男はまた、「うむ」とうなずく。金網を越えてしまえば楽勝だ。
「がんばれ! がんばれ!」
 男は鉄塔をぐいぐい登る。もう慣れたものだ。まるで猿のようだ。
「がんばれ! がんばれ!」
 どんどん登る。
「がんばれ! がんば…… あっ!」
 ある地点まで登ったとき、男の体はなにかに打ちつけられたかのようにピタリと止まった。そしてぶるぶると震え出す。火花も散っているようだ。
「がんばれえっ! がんばれえっ!」
 絶叫する娘。感電し棒切れのように落ちてくる男の体を見た母親は、ニヤリと笑った。