戸惑い纏って飛んだ、鮮やかな蝶

「あ、ちょうちょ、ちょうちょ」
 男の子が窓の外の蝶に誘われ、ふらふらと部屋を出て行く。お母さんはそんな男の子を、洗濯物を干しながら眺めている。男の子が生まれたのは、今から22年前だ。大きな災害が列島を襲い、その国は横に5メートル広がった。
 大災害の次の日から、日本中の人たちが一斉にくしゃみをし始めた。老若男女、少しの違いはあるけれど、だいたい国民ひとりあたり、450回/1日のくしゃみ回数だった。僕たちはそのころ、こう言ったものだ、くしゃみとともに。
『日本中の人たちが、日本中の人たちのことを噂している。人のうわさ話なんてしている場合じゃないだろうに』
 果たして。そのころの日本はうわさ話で充満していた。
「あの子、妊娠してるらしいよ」
「あのデブ、元の部署に戻ったけど、やっぱり嫌われているらしいね」
「さっき電車で化粧してた女、アイライン引くときに口から舌が出てたな」
「お前が言ってた知り合いの知り合いの女の子、ベース弾く様子がスーパーカーのミキちゃんにそっくりらしいよ」
「あいつ、クルマの免許取って5000キロ走るまで、自分にクルマが必要かどうかちゃんと考えなかったらしいぜ」
 蝶に誘われて外に出て行った男の子は、靴が大好きだ。いつか「自分はムカデになりたい」と言ったこともある。たくさんの足に、一足一足、お気に入りの靴を履くのだ。
「おかあさん、おかあさん」
 男の子は母親を呼んだ。
「なに? どうしたの?」
「あのちょうちょは、どうしてばらの花のつぼみに止まっているの? 横にきれいに咲いているやつがあるのに、どうしてつぼみに止まるの」
 お母さんは、澄んだ青空を見つめた。飛行機雲の跡を追った。ところどころ浮かぶ、雲の隙間を探した。そして、これまでの人生を振り返った。
『本当に大切なものは、つぼみのままで終わるのよ』
 男の子はその言葉を聴いて、たんっ、と素足で地面を踏みならした。
「あ、ちょうちょ!」
 24歳の女の子が窓の外の蝶に誘われ、勢いよく部屋を飛び出して行く。猿のような男は女の子を、洗濯物を干しながら眺めている。たかたかと、地面が揺れ始めた。翌日から列島がうわさ話で覆われることを、人々はまだ知らない。