夏が懐かしい

 待ちに待った夏休み。学生たちが。ということで朝の電車がスカスカになるかと思ったけど、そんなことなかった。いつもどおり。結構高校生も乗っていた。スカスカになってほしい。
 一日中金曜日のような気がした木曜日。会社は、わりとポケモンGOの話題でもちきり。僕のまわりだけかもしれないけど。というか僕が喋っているだけかもしれないけど。毎日会社帰りにポケモンを一匹捕まえてから電車に乗る。というようなことにしたら、運動になってよくない? などと思っている。とは言うものの、僕はポケモンをやったことがない。
 どうにも帰りの電車で本を読む気にならないここ一ヶ月だったけど、ここ数日はずいぶん集中して本を読んでいる。集中しているけど、何駅かで寝てしまう習慣。
 暑い暑いと言いつつも、通勤の電車は涼しいし、デスクワークの会社内も涼しい。自宅も涼しい。結局暑いのは、家から駅、駅から会社へ、会社から駅へ、駅から家へ、歩いているときだけだ。そんなことを、外のもわんとした空気に包まれながら思う。会社帰りにもわんとした空気に包まれると、懐かしいな、夏。と思ってしまう。夏なのに。

ランチは夢のなかに

 朝会社に出かけるとき、玄関で良い革の靴たちをおそるおそるチェックしたところ、やはり薄っすらとカビが浮いていた。この季節になると、必ずカビの生える靴が出てくる。雨の日には履かないって決めている靴があるから。
 昨年転職して、それまでに比べるとずいぶん街中のオフィスになったから、一年間色々なお店に昼食を食べに行った。ときには駅弁を買った。小倉駅ホールに出店しているB級グルメの食べ物を買って、公園で食べたりもしてきた。最近では、近くにできたばかりの佐世保バーガーを買い、四苦八苦して食べた(物理的に)。
 以前の会社が、まわりにコンビニしかないような立地だったから、何となくランチに重点を置いた一年間だった。でも、元々僕は昼にあまりガツガツとものを食べる人間ではなかった。おにぎり一個とサンドイッチくらいでよかった。昼飯を抜いていた時期もあった。少なくとも、井之頭五郎さんのようにランチに命をかけている人間ではなかった。最近そのことを、思い出しかけている。

だいぶ長く生きている

 もうちょっと難しい音を聴きたい。生意気な十代のころにそんな感想を持っていたブルーハーツを、今朝電車で聴きながら通勤した。今考えたら、なんの取っ掛かりもないところからいい曲を作ることがどれほど難しいことか。指のいたずらでたまたま響いた変な和音、口をパクパクさせているうちに思いついた面白いリズム、爆音でストレス発散しているうちにアンプから出てきた印象的なリフ。そんな偶然に頼ることなく、いい曲を練り上げるってのは、1も2もない0から100を作り上げるようなものだ。
 駅前の家に住んでいる白い犬が、僕が朝通りかかるときに「べー べー」と豚の鳴き声のような音を口から出していた。喉に何かがつまったのか、具合が悪くて吐きそうなのか、何らかの異常が発生しているような音だった。電車に乗らなきゃいけなかったので、何をすることもなく通り過ぎた。少し心配はした。
 帰りに電車を下りて通りかかると、白い犬はおだやかな様子で地面に寝そべっていた。大事にしているらしい木の欠片も側に置いてあった。あの子ももう、だいぶ長く生きている。

動く歩道

 私は犬。犬だけど、動く歩道にも乗る。九州福岡は北九州市小倉駅北口の動く歩道によく乗る。
 動く歩道の上では、本来ならばエスカレータと同じで、歩いてはいけない、ということだったと思う。歩きたいなら、両側に設置された動く歩道ではなく、真ん中の動かない歩道を歩かなければいけない。だけど、人々は皆、動く歩道の上を歩く。自分の力を使わなくても運んでくれる装置を、人々は自分の力にプラスを与えてくれる装置として、つまりは加速装置として捉えている。
 朝八時ごろの動く歩道では、特にその傾向が顕著だ。夜になると、少しゴーストタウンのような様相になる小倉駅北口だけど、日中は働く人も多い。だから朝晩は、動く歩道の上でちょっとしたデッドヒートが繰り広げられることが多い。真ん中に線があるわけではないけど、左側がのんびり歩線、右側が追い越し歩線。
 私は毎朝、八時半ごろ、一番デッドヒートの激しい時間帯に動く歩道に乗ってみる。私はその上を歩かない。左側でじっと立っている。お座りはしない。
 今日は、私の前で腰の曲がった小さなおばあさんが、じっと立っていた。勤め人たちは皆、おばあさんの右側を足早に通り過ぎていく。腰の曲がったおばあさんにぶつからないよう、体を横にしてすり抜けていく人もいれば、少々ぶつかっても構わないといったふうに、そのまま正面を向いて右側を追い越して行く人もいる。
 動く歩道の終わりは、三方向に分かれている。右側へ行くのが仕事に行く人。左側へ行くのが病院に行く人。右側には企業がいくつか集まった大きなビルがあり、左側には大きな総合病院があるのだ。
 おばあさんは、左側に向かった。私はおばあさんに続いて、動く歩道を降りた。
「あんたはどこに行くんだい? あっち? それともこっち?」
 おばあさんは振り向いて、私に言った。私が何も言わずに黙っていると、こう続けた。
「犬の年齢なんてのは、わからないねえ。あんたが働く世代なのか、体を悪くした年寄りなのか、ちっともわからないよ」
 そう言うと、おばあさんはそろそろとした足取りで、病院へと続く歩道を歩いて行った。私は、ここから病院までの間だけに動く歩道があればいいのに、と思った。
 私は右でも左でもない、真っ直ぐ前に向かう。真っ直ぐ行った先には、規模はかなり小さいけど、形としてはニューヨークのセントラルパークのような公園があるのだ。昼休みには勤め人のような人たちがぐるりをウオーキングしていたりするし、日が暮れてくると、スケートボードを持った若者もやってきたりする。
 私はその公園で日中を過ごす。遙か先には、錆びついた工場群が見える。古びているけど、まだまだ現役の建物だ。自分が現役なのかどうか、わからなくなる。少し飛び跳ねながら、公園へと続く階段を降りた。

アイフォーン

 ケータイをSIMフリーのiPhone 6sに変えて、いわゆる格安SIMカードで運用することにした。前々からわかっていたことだけど、auiPhone 5sを2年利用し、機種の割賦代金を払い終え、月々の料金が1000円程度アップしたことがきっかけだ。と、こうやって事実を淡々と書いただけでも、おかしな話だよまったく。
 携帯電話の料金に関しては、総務省? などが色々とやっているようだけど、ユーザー側が望む解決策は単純だ。通話をあまりせず、パケット通信もあまりしない人向けの「プランの組み合わせ」を実現すればいいだけ。ソフトバンクだと、ホワイトプラン+データ量1GBとか。
 しかし現実は通話をあまりしない人は、大容量7GBで5000円代のパケット定額サービスに加入せざるをえず、低容量1GBの割安なパケット定額にしようと思ったら、2000円以上の通話し放題サービスに加入しないといけない。なんでこうなんだろう。ケータイ大手3社のこのサービス形態は、もはや「いやがらせ」だと思うんだけどね。というわけで、たとえサービス面で少し不便があろうとも、まともなサービスを提供している格安SIMに移行することにした。というか格安SIMじゃなくて「まともSIM」と言いたい。
 ちなみに使っているインターネットのプロバイダが提供しているまともSIMを使うことにした。音声通話とSMS付きのデータ容量3GB。データの追加購入や繰り越しもできてドコモ回線。月額料は1500円くらいだ。半年間はキャンペーンで0円。SIMフリーのiPhone 6sをAppleで買って、2年の割賦にしたから、月4000円である。新しいiPhoneに機種変更することで、これまでより4000円くらい安くなった。本当におかしな話。
 3大キャリアが使えないデメリットだけど、よく言われるように年齢認証ができないこと。これによってLINEのID検索ができなくなるわけだけど、これはQRコードの作成でなんとかなる。ezweb.ne.jpのようなキャリアメールが使えない点については、うん、これは確かに面倒くさい。ただ、キャリアメールのためだけに月々4000円多く払うことはない、ってのが私の判断であった。
 あとやっぱり、せっかく買ったケータイを長く使いたいってのがある。2年経って割賦代金払い終えたのなら、機種変更したほうがお得、という風潮が嫌だ。これはクルマにも言えること。古いクルマを大事に乗っていたら税金が増える。環境に悪いクルマに乗りやがって! という理屈らしい。と言いつつクルマに関しては新車欲しい。スズキのイグニス。スズキは応援しましょう。
 ところで、iPhoneは昔、2年ごとに買い換えたいと思えるような道具であった。3Gのころから、あのリンゴマークの道具を、電車でポケットから取り出すのがちょっと恥ずかしいなってころから使っている。使っているけど、私が長く使いたいと今回思ったのは、Apple製品にここ数年ブレイクスルーがないってことなのかもしれない。7で世界がひっくり返るような機能がつく、またはデザインになるという可能性もあるかもしれないけど、まあ、ないだろう、と。この6s長く使いたいなと。
 これまでiPhoneはカバーもつけず、画面保護フィルムもつけず、そのままで使ってきた。でも今回は、強化ガラスのフィルムを貼ろうと思う。ずっと「割れたときは割れたとき。そのときは新しいiPhone買うぜいえーい!」と周囲に公言してきたけど。もうそんな感じじゃないみたい。

一緒

 死んでいく人たちがいて、まだ生き続ける人たちがいる。幸いなことに、僕は恐らく、まだまだ生き続ける。生きて行く僕は、他のいろんな生きている人たちのことを見つけることができる。生きている人たちは、色々なことを考えている。その色々なことたちは、ときに刺々しく、ときに雄弁で、ときに悲しく、ときにあたたかいけれど、案外ささやかなものだ。生き続けているのに。今夜もとてもささやかで、でも僕たちがともに生きていることを実感できる考えに出会った。
 僕たちは生きている限り、いつまでも他の人たちを味わうことができる。人は死ぬ。誰かが死んでしまっても、他の僕たちは生きている。ささやかなものを味わいながら、分かち合いながら生きていく。とてもあたたかい。あたたかいものがある。どこかに行く人に言いたい。僕はあたたかいものを見つめている。でもそれはとてもささやかなものだ。どこにも行かない僕たちが味わえるものも、うまくいってあと数十年、とてもささやかなものだ。ささやかすぎて、どこかに行く人と、違いなんて、ほとんどない。もうちょっと長く、ささやかなものを味わうだけだ。本当にちょっとだけの違いだ。違いはほとんどない。
 違わないことだから。僕たちとあなたたちとは。

コードバン

「今日は終日ほんとに晴れだよ」とでも言いたげな天気予報だったけど、朝、見上げた先にある空模様は怪しかった。僕は雨に濡らすのがわりと厳禁な(変な日本語)靴を持っていて、ほんとに晴れだよ、って日にしか履かない。天気予報的には履ける日だったけど、体感を信じて違う靴で出勤。駅までの道のり、霧のようなかすかな雨が降ったように思う。それくらいあいまいな雨だった。
 今年は電車のなかでも駅のホームでも、あまりフレッシュな人を見かけないような気がする。フレッシュな人たちは、もうちょっと早い時間に出勤通学しているのかな? 僕が去年からわりと遅めの電車に変わったから。ということは、五月のゴールデンウイーク明けあたりに、要領を覚えた四月にフレッシュだった人たちを、いくらか電車で見かけるようになるのかもしれない。
 喫煙室で、実は若白髪を染めている30歳くらいの男性を、もうひとりの30歳くらいの男性が「たいへんだね、若いのにね」というふうに慰めていた。白髪生えまくりでそのままの僕は、妙な空気のなかに包まれて、ただただ困惑していた。